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歴史的瞬間? [歴史]

 只今、11年11月11日11時11分です。

 1ヶ月ぶりのブログ更新。卒論諸々のことがあり、ブログが滞っていました。

 まぁ、他にいつも更新をしていた20時台に「けいおん学講義《裏枠》」というSkypeチャットをしていたり、FC2ライブチャットで21時から生放送を行っていたりしたせいもあります。
 FC2はこのアドレスで放送しています。
http://livechat.fc2.com/29486157/

 twitterも始めました。@Makoto19890726

 そうそう、今日11月11日は中野梓(あずにゃん)の誕生日!ニコニコ動画には他のキャラ同様記念動画、twitterには祝福つぶやきがありました。
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「日常」といっても、内容はどちらかというと「非日常」ですよ [歴史]

 GWの現在、浜松に戻っています。

 4月29日は、堀先生、大学院の先輩の3人で吉野奥千本へ行ってきました。桜は散ってしまっており、ほとんど残っていませんでしたが、わずかな桜を見ることはできました。GW明けに奈良へ戻ってから、写真とともにUPしたいと思います。

 30日は、午後に大神神社の文化講座「三輪山セミナー」へ参加してから浜松へ向かいました。この日も堀先生と一緒でした。
 今回、初めてセミナーへ参加したのですが、講座申し込み用紙の生年月日の欄で元号の選択が「M・T・S」しかなく、「H」がありませんでした。手書きで「H」を書きました。
 会場へ入ると、300人ほどの人がおり、会場の外で講師の話を聞いている人も出るほどの盛況でした。
 今月の講師は奈良大学名誉教授で、古層日本語(大和言葉)が専門の木村紀子先生でした。演題は「サヰという山ゆり草―ホトタタライスケヨリヒメ(神武后)の神域―」です。神武后の名前は『古事記』と『日本書紀』で異なっており、なぜそのようなことが起こっているのかを大和言葉の観点から分析していました。また、神武后の記述に関することで、本文以外にある「割り注」をどのように解釈するのかを説明していました。そこには、大和土着の文化・言語と外から入ってきた文化・言語が関係しており、この違いが記紀に出たようです。

 セミナー終了後、三輪駅からJRに乗り、近鉄で京都まで出て、浜松へ行きました。奈良へ戻るのは8日の予定です。6日は出席すべき授業がないので、浜松に留まることができ、引佐や浜北の見学に行こうと思います。
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学会がなければ、私設研究会を作ればいいじゃない [歴史]

 旧暦の今日、12月6日は持統天皇が飛鳥浄御原宮から藤原宮へ遷ったとされる日です。ユリウス暦(新暦)ですと、12月27日にあたります。
 
 最近の私の研究路線は宮都を離れて、アマテラスやタカミムスヒ、地域王権といった分野に傾いているので・・・、今後の方向性がどうなることやら。しかし、知れば知るほど奥の深く、探求のしがいのある内容なので楽しんでいきたいと思います。

 以前書いたのですが、My雑誌の表紙に私は「古代都市研究所まほろば」という私設研究所所属ということになっています。けれど、最近の研究内容から「古代文化研究所まほろば」に名称変更することにしました。
 活動内容は、①考古学・宗教学・地理学など多角的視点から古代社会を探る、②所属研究員各自持ち寄った様々な話題について自由に議論する、というような感じです。簡単にいうと、学問的制約を受けずに様々な議論(学術フリートーク)をする集団です。秘密ゼミ的な側面もあります。
 私の気持ちとしては、あの人やこの人などメンバーに入ってもらいたい人がいるので今度声をかけてみようかと思います。まだ構成員は2人ですので・・・。
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古代史番組は見ていて楽しい いろいろな意味で [歴史]

 久しぶりの連続更新です。

 今夜(17日夜)にテレビ東京系(奈良は奈良テレビ)で放送された「古代ミステリー謎解きの旅」を見ました。今放送では、安倍晴明や邪馬台国が扱われていました。

 安倍晴明編では、大阪阿倍野にある安倍晴明神社や京都晴明神社、大将軍八神社が取り上げられていました。
 平安京復元模型で同志社女子大の山田邦和先生が陰陽寮の位置をレーザーポインターで示していましたが、テロップ表示の仕方が悪く、まるであの一帯(大極殿東の建物群)すべてが陰陽寮のような編集がされていました。実際の陰陽寮は100m×75m程の小さなものです(人員は90名ほど)。

 邪馬台国編は奈良(大和)が舞台となっています。去年の纏向遺跡での発見が冒頭で取り上げられていました。最近、纏向や箸墓方面へ行ってないので、どのようになっているのか見に行ってみたいです。
 纏向遺跡の案内をされた石野博信先生を「地元の研究家」と紹介していましたが、石野先生は纏向遺跡研究の第一人者で、纏向における土器編年を確立した方です。「地元の研究家」ではなく、「纏向遺跡の専門家」です。

 このような番組を見ていると、現地に行ってみたくなります。また、制作側の粗探しをしてみたくもあります。
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平城遷都1300年祭つながりの催し様々 全国を挙げて盛り上げたい? [歴史]

 NHK古代史ドラマ『大仏開眼』を視ています。

 舞台は平城京のあった奈良。主人公は吉備真備。奈良時代の政治や文化の中心を担う人物の生き様や、どのような時代であったのかが描かれています。

 撮影の多くは、奈良で行われたそうです。特に、聖武天皇が御出ましになる場面は完成しつつある平城宮大極殿で撮影されました。また、平城宮朱雀門や東院庭園の場面もありました。

 大仏開眼は西暦752年です。この年や、1052年(日本の末法)、1252年(鎌倉大仏鋳造開始)など、仏教関係には「〇〇52年」という年がいくつかあるような気がします。これは、もしかして・・・。

 ちなみに、今回のドラマで描かれていた「平城離都」は、「長岡京遷都」同じく、政治的勢力が背景となってるようです。つまり、聖武天皇による平城離都は政治的勢力(藤原氏等)を朝廷より遠ざけるためであったようです。

 最後のテロップに様々な考証が出ていました。時代考証:東野治之奈良大教授、風俗考証:猪熊兼勝京都橘大名誉教授、建築考証:鈴木嘉吉元奈良文化財研究所長でした。その分野の第一人者の方々ばかりでした。
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ニャンニャン ニャン ニャンニャンのニャンニャン ニャンニャン [歴史]

 平成22年2月22日22時22分に更新。

 単なる思いつき更新です。「猫の日」にちなんだ。

 ブログと連動して、猫好きと把握している人に記念メール(笑)。1分間に複数人に送れるように30分前から準備。書く→本文コピー→保存→新規メールにペーストを繰り返しました。

 タイトルの「ニャン」1つは「2」一つに相当します。つまり、訳すと「22222の2222」→「平成22年2月22日の22時22分」です。さすがに「22秒」はできませんでした。

 というわけで、これまで撮った猫画像を一挙にどうぞ。

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 次回同じようなネタで書くとしたら、一番近いのは12年後の「2022年2月22日22時22分」です。32歳の自分は何をしているのやら・・・。

 神保さんも自身の日記で話題にしていました。「今日は平成22年2月22日。なんと2が5個もならんでいます。考えてみたら、この先5個のぞろ目の日は平成の年号では2度と巡って来ないのです。という事は今日は非常に特別な日。お祝いしなくっちゃ」(神保彰オフィシャルサイトDIALY2010年2月22日分)と。

※カテゴリーを「歴史」にしたのは、ある意味「歴史的記念日」に当たるからです。
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奈良は「石を投げれば、考古学者にばかりあたる」とある本に書いてありました [歴史]

【公開講座情報】 
 大学のホームページにあり、興味があったのでこちらでも紹介しておきます。

 3月21日(日)の13時から奈良大学講堂にて公開講座『邪馬台国からヤマト王権へ~纒向遺跡の新発見が語るもの~』が催されます。
http://www.nara-u.ac.jp/news/event/detail_20100116.html

 昨年、纏向遺跡での大発見で活躍された奈良大学卒業生で桜井市教育委員会文化財課主査の橋本輝彦さんによる発掘報告、奈良大学文学部文化財学科前教授で古墳研究の第一人者(日本一)の白石太一郎先生による邪馬台国と大和古墳の関係、そしてヤマト王権との関連を聴くことができます。

 邪馬台国研究の気鋭研究者と古墳研究の日本一の先生のお話を同時に聴くことのできる滅多にない機会です。興味のある方は是非お越しください。私も行く予定です。

【地図と考古学】
 酒井龍一先生によると、古代の都城や集落等の復元研究をするときは「Google Earth」が便利だそうです。

 先生は「Google Earth」で斑鳩地方の衛星写真を決まった高さ(高度)で固定して、少しずつ移動させて印刷を繰り返し、独自の航空写真を作っていました。ここに先生の提唱する聖徳太子の都市区画を載せて、現在の道や地割りがどのよな痕跡があるのか調べていらっしゃいました。

 飛鳥地方も同様の手法をしたいそうですが、何故か飛鳥地方は低高度の画像がないため、復元ができないそうです。

 今度、私の故郷浜松の城下で同様の復元をやってみようかと思っています。掛川城下も。

【歴史本】
 今は本屋に行くと、どこも坂本龍馬の特別コーナーがあります。奈良も例外なく龍馬コーナーがあります。

 けれど、通常の歴史コーナーには古代史の本が多くあります。私の知る限りでは、浜松や京都の本屋より、置いてある古代史本の数は多いです。さすが奈良。

 中には1冊9000円以上する専門書、それこそ研究者用の本も一般書と同じ所にあります。某書店には10年ほど前に発行された奈文研の『大和吉備池廃寺―百済大寺跡』がありました。欲しかったのですが、高価なためその時は断念しました。

 今、私が一番欲しい本は『明日香村史』、『贖明日香村史』です。それぞれ上中下の3冊セット、計6冊になります。大学図書館にもあるのですが、手元にあった方が便利です。
 前者は絶版(昭和49年発行)で某古本求書サイトで調べると、大阪の本屋に格安のセットがありました。試験が終わったら買いに行こうかと思っています。

【今回のタイトル】
 確かにその通りです。自称考古学者と言うような方も奈良にはたくさんいらっしゃいます。考古学研究をしていれば、誰でも考古学者です。まぁ、正しくは「考古学関係者」の方がいいと思いますがね。

 分かる人には分かるのですが、スーパーでもすれ違う人の中に考古学で有名な方がいるのも事実ですし、西大寺周辺は考古学者の卵もたくさんいらっしゃいます。

 また、とある論文集の巻末の著者紹介に住所を載せている人の多くが奈良県内に在住していました。考古学界では超有名な大先生が以外と近くに住んでいて驚いたこともあります。

 あっ、京都や大阪はどちらかと言うと歴史学(史学)の方が多く住んでいらっしゃいます。
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考古学研究では誰でも専門家になれる? [歴史]

 午後に桜井市立埋蔵文化財センターで催された秋季特別記念講演を聴いてきました。というのも、この講演会の講師は大学でお世話になっている先生(このブログに出てくる私の師匠)です。

 講演の内容は「弥生時代はなぜ終わったか」です。先生の講演内容によると、弥生時代は紀元前10世紀にはじまり、箸墓古墳の築造(3世紀半ば)で終わったということです。

 理由を挙げると切りがなく、長くなるので、その手の本やネットで調べればある程度出てくるので、そちらを参考にしてください。

 今回の講演で初めて知ったことは、「纏向遺跡の研究者は全国で2人しかいない」とうことです。

 「えっ?多くの人が論文や本で様々な説を出しているじゃないか」と思われるかもしれませんが、実際、纏向遺跡のみを研究テーマとしている人は2人だけのようです。他の研究者は「弥生時代研究の一環」や「古墳研究をする上での纏向遺跡研究」という方ばかりのようです。

 このようなことは他の考古学テーマでも言えます。私の研究テーマ「日本古代宮都」でも、飛鳥京・藤原京研究を専門(これのみ)で行っている人は2人だけとのことです。奈良県立橿原考古学研究所の林部均さんと奈良国立文化財研究所の小澤毅さんです。

 言い換えれば、「専門研究者のいないテーマでの研究は明日からでも『私は〇〇研究者だ』と堂々と言える」そうです。今、先生が注目している時代研究テーマは「時代間の境」です。たとえば、弥生時代から古墳時代への境、日本の先史時代から歴史時代への境が挙げられます。

 そうそう、いつものことですが、先生の講演会では常に笑いどころがあります。今回は会場後にいらした桜井市の文化財担当者との講演会中のやり取りが面白かったです。
先生:「・・・卑弥呼さんの墓やったら、三角縁神獣鏡がたくさんらりまっしゃろ。箸墓なら100枚
は埋まっとるやろな、〇〇さん(発掘担当者)。」
担当者:「そのように期待して日々努力して(発掘して)います。」
ちなみに、この時の担当者は私の大学の先輩で、先生のゼミ生でした。今回の講演を後で聴いていて、「大学時代の先生の講義を思い出した」と最後に感想で述べられていました。

 また、講演会資料に用いられた先生の著書に関する質問で、
参加者:「先生のこの本はどういう本ですか?」
先生:「この本は可哀そうな本なんですわ。シリーズものでして、他の本を担当された先生が
旧石器 捏造事件に関係してまして、発行後すぐに回収されたんですわ。今手に入れ
るには古本か、 出版社の倉庫へ行けばタダみたいな値段で手に入れることができまっせ。
まぁ、焼却処分されていると思いますがね(笑)」
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考古学的大発見はある日突然に・・・ 邪馬台国はやはり・・・ [歴史]

 「この時代、西日本には2つの大きな勢力がありました。1つは近畿を中心とする勢力(邪馬台国連合)。もう1つは山陰、北九州を中心とする勢力です。このことは、同時代に近畿から大型の前方後円墳が出現し、しばらくの間は近畿のみに集中していました。天皇陵以外の古墳でもかなりの大型前方後円墳があります。前方後円墳は畿内が発祥とされており、この時代、この辺りの勢力への服従の証しとして、築造が許されていたのだと考えられます。しかし、この古墳分布には、この時期、西限が見られます。これは、勢力範囲の境界があったと考えられます。そこで出てきたのが、山陰・北九州の勢力です。
山陰・北九州の勢力は、近畿の勢力にとって邪魔な存在でした。なぜなら、この勢力は朝鮮半島との交易を支配していたからです。朝鮮半島からは、この時期、貴重な鉄資源を日本に輸出していました。その鉄資源を山陰・北九州の勢力は独占していました。『独占』していた理由は、北九州や山陰に鉄剣や銅鐸などが多く出土していることに由来します(神庭荒神谷遺跡など)。そのため、近畿の勢力は鉄資源をめぐり、山陰・北九州の勢力と戦いました(倭国大乱?)。その結果、近畿勢力が勝ち、卑弥呼が女王になり、近畿へも銅鏡などが入り、前方後円墳も西へと広がっていった。」

鉄器ですが、邪馬台国の時代以前にももちろん、日本にはありました(最古は紀元前3~2世紀)。しかし、次第に山陰・北九州勢力の力が増し、独占されました。実際、近畿・中国地方の銅鐸の出現は倭国大乱以後(弥生時代後期)のようです。

吉野ヶ里遺跡は、上述の「山陰・北九州の勢力」の中心的なクニだったと考えられます。金印(「漢委奴国王」印)も山陰・北九州の勢力の王(奴国王)に贈られたものなのかもしれません。
卑弥呼の魏への使者派遣も「倭の王は最終的に私になりました。」ということを表していたのかもしれません。


『魏志倭人伝』を読むと分かりますが、邪馬台国以外にも多くの大小国が記されています。この記述から九州に邪馬台国があるとすると、かなり込み合い、九州一帯にクニが乱立していたことになります。老女の遺骨は、九州勢力の中心的な「巫女」であったと考えます。卑弥呼が呪術で政治を執り行っていたのなら、他国でも同じようなことが行われていたとも考えられます。

交易支配・鉄資源に関しては、昔の邪馬台国は争いに参加することがなく、必要なかったが、狗那国(邪馬台国とは犬猿の仲)との対立関係で武器や外交必要になり、九州勢力から奪ったと考えられます。

畿内政権は天皇を中心とするもの(ヤマト政権)です。もし、畿内政権が九州の邪馬台国を倒したのだとすると、「なぜ、後世に歴書(古事記・日本書紀など)を作成する際、大勢力を倒した偉業を記さないのか」という疑問ができます。古代のヤマトタケルの熊襲征伐や東北地方の平定事業な記載しているのに、なぜ?ということです。日本の歴史書に登場しないのは、「ヤマト政権と同じ時代・同じような所にあった大勢力に関して書くと、天皇の威厳に疑問が生じる」という政治的な理由だと思います。

そうかというと、邪馬台国と畿内政権は同じ地で歩みを共にしていたのか、という疑問も出てきます。邪馬台国を考えると、わけの分からないことが次々と出てくるので、それをどのように解釈し、歴史と照らし合わせていくのかが邪馬台国を研究する上で一番難しいことです。

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 上記は以前私がYahoo!知恵袋で書いた「邪馬台国畿内説の決定打」とされる事項です。

 今週の中ごろ、奈良県桜井市の纏向遺跡で3世紀前半の巨大建物跡が発見されました。これは邪馬台国論争に大きな衝撃を与えたはずです。畿内で『魏志倭人伝』に符合するまとまった遺跡が初めて確認されたからです。

 現地説明会が今日行われましたが、私は行くことができませんでした。明日のに行こうかな・・・・、京都も行きたいけど・・・。ニュースによると、現地で配布される資料は1万7000人分あるそうです。また、県外、東海地方から来た人もいるそうです。

 某新聞に発見ニュースが載った時、本文中に数名の専門家のコメントがあったのですが、そのうち3人は私の通う大学関係者(元教員、卒業生)でした。発掘担当者も大学の卒業生でした。関係者多すぎです。



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歴史を専門とする人・しない人 京都・奈良・飛鳥巡りをする際は・・・ [歴史]

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 平城宮第二次大極殿跡で奈良時代の人々のことを思っていそうな、大学生(考古学専攻)の背中。しかし、本当は「あぁ、秋の空だな。紅葉楽しみだなぁ」と思っている・・・。


 私、京都や飛鳥に行くときはその時の内容によって現地で行動づる人を決めているのです。

 研究で行くときは、基本は一人、もしくは同じ研究テーマの人。けれど、同じテーマの人は今のところいません。

 プライベートで気分転換の時は、どちらかというと歴史を専門的に学んでいない人を誘うようにしています。

 歴史を専門的に学んでいる人と気分転換の京都歩きをすると、あまり気分転換にはならないような気がするからです。
 例えば、古美術品を見た時「これってウルトラマリン(ラピスラズリ)かな?瑪瑙もきれいだ。」や建築を見て「大斗と巻斗、垂木、木負が複雑に組み合った〇手先の組物だな。」という会話が歴史を専門に学ぶ者の間ではあります(実話)。

 歴史を専門としていない人と京都・奈良・飛鳥歩きをすると、かなり楽しいです。歩いて寺院・遺跡を巡る楽しさ、歩かなければ分からないその地域特有の文化・風土を見る楽しさを伝えることができます。また、先日大学で催された関西・考古学の日記念講演会「関西考古学50年-考古学の発展と遺跡の保存を語る-」で聞いた「考古学研究に関する普及・啓発活動」の大切さを実践することもできます。

 「へぇ~、勉強になるな」や「〇〇(歴史用語)って、奥深いんだね。面白い!」と一緒に歩いた人に言われるのは歴史を専門にする人にとって嬉しいことです。そして、このことがきっかけで歴史(考古学)に興味を持ってくれると、さらにうれしいです。第2次考古学ブーム到来を期待しています。

 ちなみに明日は飛鳥へ行くつもりです。
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