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様々な視点が飛鳥をより深める歩けオロジー [写真ブログ 奈良]

 いつの間にやらブログ閲覧数が50,000件を超えていました。

 今日は酒井先生や学友会の方々約30名ほどで、新ノ口駅から飛鳥へ行く「太子道」を歩きました。

 朝10時ちょっとすぎに新ノ口駅を出発し、耳成山へ。下ツ道(寺川沿い)を南下し、近鉄大阪線に差し掛かり、東へ。耳成山の南側を見つつ、通過。
耳成山
耳成山 posted by (C)もんせ

 途中、スーパーで昼食を確保し、藤原宮を目指します。
 道中は常に飛鳥や歴史に関する様々な話題が飛び出していました。大学校内でも聞くような話から、かなり突っ込んだ専門的な話しまで。話していても、聴いていても楽しい会話でした。

 藤原宮に着き、朝堂院・大極殿区画を見学後、朱雀大路跡へ。ここで、先生が私を呼び、先生の代わりに藤原京朱雀大路に関する地形的な説明をしました。
藤原宮
藤原宮 posted by (C)もんせ

 日高山を越え、紀寺跡(小山廃寺)で昼食。食後、参加者による自己紹介がありました。みなさん、それぞれ独自の研究テーマを持ち、日夜研究に励んでいらっしゃる様子が良く伝わってくる自己紹介でした。

 紀寺跡を出発し、大官大寺跡を見学、飛鳥の入り口(雷丘東)で先生による飛鳥内の太子道(西に20度振れた軸を持つ道)や太子道と同じ方位をとる遺跡の説明がありました。

 基本的にこれら西に20度振れた都市計画様式は推古朝と初期舒明朝のもので、それ以降は南北に軸を持つ都市計画になっています。なぜ、西に20度振れた都市計画になっているのかが課題になっています。

 説明後、明日香村埋蔵文化財展示室を見学し、最終目的地の橘寺を目指しました。

 橘寺へ向う途中には、伝飛鳥板蓋宮跡(飛鳥京)があるので、そこでも先生による説明がありました。

 飛鳥京の課題は、その正式な入場ルートがどのようであったかです。飛鳥京の南は、飛鳥川が流れており、南から正門(南門)に入るのは困難です。東からですと、外国(中国や百済)使節が、宮を横目に通り、遠回りをして宮に入ったことになります。そうすると西が最も入りやすのですが、これはこれで当時の難波からの主要道を外れ、一般庶民が生活する村や市を見せながら使節団を案内していたのかとなってしまいます。

 そして最終目的地である橘寺へ。
橘寺
橘寺 posted by (C)もんせ
橘寺本堂軒
橘寺本堂軒 posted by (C)もんせ 
 太子誕生の地を参拝し、太子道の旅は終わりました。

 この後、時間のある人たち10名で懇親会を催しました。私も参加しました。各人の研究に関すること、地方の歴史やこれから伝統や文化をどう今の人たちに伝えていくかなどが話題になりました。

 18時に懇親会も終わり、橿原神宮前駅まで歩きました。その時間、ちょうど太陽が二上山の方へ沈む時でした。水を張った水田にも太陽が反射していました。
二上山に沈む・・・
二上山に沈む・・・ posted by (C)もんせ

 そして、太陽が沈みました。
夕焼け
夕焼け posted by (C)もんせ
 古代の人々は今よりきれいな澄んだ空で夕日を見て、多くの歌(万葉歌)を詠ったことでしょう。
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