SSブログ

考古学的大発見はある日突然に・・・ 邪馬台国はやはり・・・ [歴史]

 「この時代、西日本には2つの大きな勢力がありました。1つは近畿を中心とする勢力(邪馬台国連合)。もう1つは山陰、北九州を中心とする勢力です。このことは、同時代に近畿から大型の前方後円墳が出現し、しばらくの間は近畿のみに集中していました。天皇陵以外の古墳でもかなりの大型前方後円墳があります。前方後円墳は畿内が発祥とされており、この時代、この辺りの勢力への服従の証しとして、築造が許されていたのだと考えられます。しかし、この古墳分布には、この時期、西限が見られます。これは、勢力範囲の境界があったと考えられます。そこで出てきたのが、山陰・北九州の勢力です。
山陰・北九州の勢力は、近畿の勢力にとって邪魔な存在でした。なぜなら、この勢力は朝鮮半島との交易を支配していたからです。朝鮮半島からは、この時期、貴重な鉄資源を日本に輸出していました。その鉄資源を山陰・北九州の勢力は独占していました。『独占』していた理由は、北九州や山陰に鉄剣や銅鐸などが多く出土していることに由来します(神庭荒神谷遺跡など)。そのため、近畿の勢力は鉄資源をめぐり、山陰・北九州の勢力と戦いました(倭国大乱?)。その結果、近畿勢力が勝ち、卑弥呼が女王になり、近畿へも銅鏡などが入り、前方後円墳も西へと広がっていった。」

鉄器ですが、邪馬台国の時代以前にももちろん、日本にはありました(最古は紀元前3~2世紀)。しかし、次第に山陰・北九州勢力の力が増し、独占されました。実際、近畿・中国地方の銅鐸の出現は倭国大乱以後(弥生時代後期)のようです。

吉野ヶ里遺跡は、上述の「山陰・北九州の勢力」の中心的なクニだったと考えられます。金印(「漢委奴国王」印)も山陰・北九州の勢力の王(奴国王)に贈られたものなのかもしれません。
卑弥呼の魏への使者派遣も「倭の王は最終的に私になりました。」ということを表していたのかもしれません。


『魏志倭人伝』を読むと分かりますが、邪馬台国以外にも多くの大小国が記されています。この記述から九州に邪馬台国があるとすると、かなり込み合い、九州一帯にクニが乱立していたことになります。老女の遺骨は、九州勢力の中心的な「巫女」であったと考えます。卑弥呼が呪術で政治を執り行っていたのなら、他国でも同じようなことが行われていたとも考えられます。

交易支配・鉄資源に関しては、昔の邪馬台国は争いに参加することがなく、必要なかったが、狗那国(邪馬台国とは犬猿の仲)との対立関係で武器や外交必要になり、九州勢力から奪ったと考えられます。

畿内政権は天皇を中心とするもの(ヤマト政権)です。もし、畿内政権が九州の邪馬台国を倒したのだとすると、「なぜ、後世に歴書(古事記・日本書紀など)を作成する際、大勢力を倒した偉業を記さないのか」という疑問ができます。古代のヤマトタケルの熊襲征伐や東北地方の平定事業な記載しているのに、なぜ?ということです。日本の歴史書に登場しないのは、「ヤマト政権と同じ時代・同じような所にあった大勢力に関して書くと、天皇の威厳に疑問が生じる」という政治的な理由だと思います。

そうかというと、邪馬台国と畿内政権は同じ地で歩みを共にしていたのか、という疑問も出てきます。邪馬台国を考えると、わけの分からないことが次々と出てくるので、それをどのように解釈し、歴史と照らし合わせていくのかが邪馬台国を研究する上で一番難しいことです。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 
 上記は以前私がYahoo!知恵袋で書いた「邪馬台国畿内説の決定打」とされる事項です。

 今週の中ごろ、奈良県桜井市の纏向遺跡で3世紀前半の巨大建物跡が発見されました。これは邪馬台国論争に大きな衝撃を与えたはずです。畿内で『魏志倭人伝』に符合するまとまった遺跡が初めて確認されたからです。

 現地説明会が今日行われましたが、私は行くことができませんでした。明日のに行こうかな・・・・、京都も行きたいけど・・・。ニュースによると、現地で配布される資料は1万7000人分あるそうです。また、県外、東海地方から来た人もいるそうです。

 某新聞に発見ニュースが載った時、本文中に数名の専門家のコメントがあったのですが、そのうち3人は私の通う大学関係者(元教員、卒業生)でした。発掘担当者も大学の卒業生でした。関係者多すぎです。



nice!(0)  コメント(0) 

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。